2006.04.21

ナスカの地上絵、新たに100個発見!-まだ未発見のものがあるかも

YomiuriONLINEより「ナスカに未知の地上絵、山形大助教授ら100個発見

世界遺産に登録されている巨大な地上絵で知られるペルー・ナスカ台地で、人か動物をかたどったとみられる絵(縦約60メートル)や直線、渦巻き模様など約100個を発見したと、山形大人文学部の坂井正人助教授(文化人類学)らの研究グループが19日、明らかにした。
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ナスカの地上絵は 東西20km、南北15kmの台地にかかれており、これまでに動植物や幾何学模様など700程度の図柄が確認されています。

今回新たに地上絵が発見されたのは、絵が多数見つかっている地域から10kmほど南で、調査が進んでいなかった地域です。

角が付いた生き物のようにも見える縦約65mの絵や、渦巻き、三角形、台形など様々な文様が発見されました。

坂井助教授らは04年、地上絵が描かれた目的の解明や保全のため、絵の分布図を作成する作業に着手。そのため、米国の商業人工衛星が撮影したナスカ台地の画像を購入して分析しました。

すると、これまであまり研究されていなかった台地の南西部に絵や図形があるのを発見。04年12月と今年3月に現地を訪れて上空の飛行機から実際に確認しました。

坂井助教授は「地上絵はまだ調査が進んでおらず、未発見の絵はまだあるのでは」と話している。
こんな大きなものがまだあるというのも驚きです。

<参考>「ペルーでナスカより古い地上絵を発見!

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2006.04.11

古代エジプトの小麦でできたビール

毎日新聞より「ビール:古代エジプト小麦を使い共同開発 京大・早大

京都大と早稲田大は10日、古代エジプトの小麦を使ったオリジナルビール「ホワイトナイル」を共同で開発したと発表した。研究や教育、産官学連携などで相互協力するため両大学が同日締結した「連携協力に関する基本協定」の第1弾。
0604111両大学の連携協力に関する基本協定では、環境や防災の研究、ゼミやスポーツイベントの共催で交流を深めることになっていますが、このビールの開発がその第1弾となりました。。

エジプト考古学の吉村作治早大客員教授が壁画を元に古代エジプトのビールを04年に復元した際、エジプトで醸造に使われていた「エンマー小麦」を京大栽培植物起源学研究室が提供したのがきっかけとなりました。

栽培植物起源学研究室は小麦約1万種を生きたまま保存する世界最大級の遺伝子バンクを持っています。現在ではほとんど残っていない「エンマー小麦」も、67-68年に兄弟学術探検隊が採取したものを保存していました。

製法などについては吉村作治教授が協力し、約1年かけて開発に成功したとのことです。

「ホワイトナイル」と名付けられたこのビールは、原料の20%にエンマー小麦を使用。コクがあり、食事の途中に飲むタイプの「ホワイトナイル」を造り上げました。

飲んでも胃の膨満感が穏やかなのが特徴だとのことです。

同社側がエンマー小麦を大量に収穫出来るのは来夏以降のため、今年のみ近縁種のデュラム小麦を使う。12日から両大学の生協やレストランで販売する。
ビール党としては買いに走らなきゃ(笑)

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2006.01.11

発見されたのは殺人事件の被害者でなく、整髪料を使っていた鉄器時代の遺体でした

Exciteニュースより「鉄器時代の男性、整髪料を使用していたことが判明

アイルランドの泥炭湿地で、”保存状態が非常に良い”2人の先史時代の男性遺体が発見されたが、調査により判明した事実が関係者らを驚かせている。1人の遺体は現代の整髪用ジェルの様なものを使用した痕跡があり、また他方は身長約2メートルで、今までに発見された鉄器時代の遺体の中で最も大きいものだという。
この遺体のうち1体はアイルランドのミーズ郡の泥炭地で発見されました。その3ヶ月後に25マイル離れた地点でもう一体が発見されました。

この2つの遺体は肉や爪が付着しており、眼球も残っていたため当初、IRAによる犠牲者ではないかと考えられていたようです。

しかし、18ヶ月の調査のあと分かったのは、なんとこの2体の遺体は死後2,500年が経過していたという事実でした。

彼らが死んだのが泥炭地帯だったことにより遺体はほぼ完全な状態で残っていたとのことです。

ユニークだったのは、背が低い方の人物は自分を大きく見せようと「ジェル」を使って頭髪をモヒカンのように立てていたと考えられることです。そのジェルもフランスからもたらされた樹脂だったとのこと。

外見を意識してジェルを使っていた方は、「Clonycavan Man」と名付けられ、約2,300年前のアイルランド社会でフランスからもたらされた樹脂を入手できたことから、裕福な人物だったと考えられています。また、背の高い方は「Oldcroghan Man」と名付けられました。

ケリー氏によると、この2人の男性は殺害されたという。「『Oldcroghan Man』は、胸を刺されています。抵抗した際にできる防御創があるため、彼は襲ってくる人物を見ていたはずです。殺害された後、斬首されています」
またケリー氏は「Clonycavan Man」について、斧で頭を割られて殺され、内臓を取り出されている、と説明している。
男が外見を気にするのは鉄器時代も変わらないようです(笑)

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2005.12.16

モナ・リザの微笑みの秘密を解明

gooニュースより「モナ・リザの微笑の秘密を解明=83%が幸せ示す」(時事通信)

レオナルド・ダビンチの傑作「モナ・リザ」の微笑をアムステルダム大学がコンピューターで解析した結果、モナ・リザは83%幸福、9%がうんざりした気分、6%が恐れ、2%が怒りを表していることが分かった。
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歴史上最も有名な肖像画である「モナ・リザ」は見れば見るほど不思議な印象を与える絵画です。1503年にレオナルド・ダ・ヴィンチが描き始めたこの絵は、完成までに4年程度かかったといわれています。

モナ・リザのモデルが誰であったのかはわかっていません。フィレンツェの富豪、フランチェスコ・デル・ジョコンドの3番目の妻であるエリザベッタではないかという説が最も有力です。

モナ・リザの絵に不思議な魅力があるのは口元の微笑みによるところが多いのではないでしょうか。フロイトはレオナルドが母親に抱いていた性的な魅力であると表現しています。

今回、アムステルダム大の研究者はイリノイ大と共同で開発した感情を認識し計算するソフトウエアを使いモナ・リザの微笑を解析しました。このソフトウェアには多くの若い女性の表情がデータベースとして登録されており、唇の曲線と目の周りのシワの線などカギとなる特徴を調べることによって人間のムードを測定し、基本的感情を数値化しています。

英国の科学週刊誌ニュー・サイエンティストの次週号に結果が公表される。
うんざりしているのは絵のモデルになるのが退屈だからでしょうか(笑)

<参考>「ダ・ヴィンチの未完の名画が壁の後に隠されている?

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2005.11.19

ベートーベンの頭蓋骨を確認

Yahoo!NEWSより「ベートーベンの頭蓋骨確認 米サンノゼ大」(共同通信)

ロイター通信によると、ドイツの楽聖ベートーベン(1770−1827年)の頭蓋(ずがい)骨とされた骨片がDNA鑑定の結果、本人のものと確認された。米カリフォルニア州のサンノゼ大ベートーベン研究センターが17日発表した。
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楽聖ベートーベンが亡くなったのは1827年3月26日。彼は20代後半から始まった難聴が次第に悪化し、晩年の約10年ほどはほぼ聞こえない状態にまで陥っています。また、晩年は慢性的な腹痛や下痢などに苦しんだといわれています。

彼の難聴の原因としては耳硬化症や、神経性難聴あるいは梅毒など様々な説が唱えられてきました。しかし最近になって、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されたことから、これが難聴の原因でないかともいわれるようになってきました。

今回鑑定された骨は、2個の大きな断片と7つの小さな破片からなっています。これは1863年にベートーベンの検死が行われた際に採取されたもののようです。この骨の所有者は長い間分かっていませんでしたが、最近になって所有者のビジネスマンがサンノゼ大のベートーベン研究センターに提供し鑑定されました。

鑑定の結果、ベートーベンの鉛中毒は死の直前だけでなく長い期間にわたっていたことも分かりました。

この鉛中毒が難聴の原因であるかどうかはまだはっきりとはしていません。

研究者は「ベートーベンが長期間、鉛中毒に苦しんでいたことが分かった。病気が彼独特の気難しい顔つきにも影響していた可能性がある」と話した。
さらに詳しく調べることで、ベートーベンが難聴の遺伝子を持っていたかなどいろいろと新たな事実が判明するのではないでしょうか。

<参考>「モーツァルトの頭蓋骨をDNA鑑定−夢はこわさなくても

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2005.10.28

ツタンカーメンが飲んでいたのは赤ワイン

CNNより「ツタンカーメン王が飲んだワインは「赤」と、研究者

黄金のマスクで知られる古代エジプトのツタンカーメン王が飲んでいたワインの色は「赤」だったと、副葬品を調査していた研究者が26日、大英博物館で発表した。この時代の人物が飲んでいたワインの色が判明したのは、初めてとしている。
ツタンカーメンツタンカーメンは古代エジプトの新王朝時代、第18王朝の王で兄アメンホテップ4世の後をついで1358年に9歳で即位しました。18歳で亡くなったあと、彼は日常で使う品や食料とともに埋葬されました。

発掘された墓からは、ワインが入っていたと見られる壷も見つかっています。その壷には「Wine of the House-of-Tutankhamun Ruler-of-the-Southern-on, l.p.h (in) the Western River」とワインの名前、収穫年、ブドウの栽培者などが書き込まれていましたが、それが何色のワインであったかは、中身がすべて蒸発していたため分かっていませんでした。

スペイン・バルセロナ大学のマリア・ロサ・グアッシュ=ハーネ氏らの研究グループが、大英博物館とカイロのエジプト博物館が保管するつぼ2つに付着していた残留物を調査。
その結果、白ワインには含まれないシリンガ酸を検出したほか、当時のワイン作りの様子を描いた絵画ではワインが赤や紫に着色されていたことから、内容物は赤ワインと結論づけました。

グアッシュ=ハーネさんのグループは、ガスクロマトグラフィー質量分析法を利用した、つぼの残留物の研究結果を、昨年10月付の米科学誌「分析化学」に発表している。
他にも分析できそうなものはありそうです。

<参考>「ツタンカーメンの頭部を復元−なかなかの美男子です」・「CTスキャンによりツタンカーメンの撲殺説を否定」・「ツタンカーメンの死因を追求−呪われませんように(笑)

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写楽はやはり他の浮世絵師ではなかった

Asahi.comより「一目瞭然、目の描き方に違いはっきり 写楽と他の絵師

江戸時代中期の謎の浮世絵師「東洲斎写楽」と、3人の高名な浮世絵師が描いた絵の目の縦横比や黒目の割合などを数値化して比べたところ、かなり大きな違いがあることが、甲南大の辻田忠弘教授(感性情報処理)の研究室のコンピューター分析でわかった。
写楽東洲斎写楽は、1794年(寛政6年)に登場し、95年にかけての10ヶ月間に役者絵を中心としておよそ140点の作品を発表し、その後忽然と消息を絶ちました。大正時代にドイツの美術研究家クルトが、写楽はレンブラント、ベラスケスと並ぶ三大肖像画家と激賞し、日本でも再評価されるようになりましたが、この「写楽は誰か」というのが浮世絵研究上最大の謎でした。

特に版元の蔦屋重三郎が無名の新人の絵を出版したのはなぜか、短期間に活動をやめてしまったのはなぜか、などといった点が謎解きの興味を生み、「写楽別人説」もいろいろな方面から唱えられてきました。

写楽別人説の主要なものは浮世絵師の葛飾北斎、喜多川歌麿、作家十返舎一九などですが、現在は「阿波藩蜂須賀侯のお抱えの能楽師・斉藤十郎兵衛だったのでは」という説が有力視されています。

辻田教授らは、写楽の絵の最大の特徴は目の描き方にあるとして、写楽、北斎、豊国、歌麿の4人が描いたそれぞれ7−10人の男性の目の縦の長さの横の長さに対する割合、黒目の幅の割合などのデータを数値化して比較。

その結果、目の縦横比と黒目の割合の平均値を比べると、写楽はそれぞれ0.61、0.37と丸っぽく黒目が大きかったのに対し、北斎は0.31、0.39と細長くて黒目が大きく、豊国は0.50、0.20と丸っぽくて黒目が小さく、歌麿は0.17、0.28と細長くて黒目が小さいという特徴が明らかになりました。

辻田さんは「4人が描く目には数値的に大きな違いがあり、3人が写楽と同一の絵師とは考えにくい」と言う。
東洲斎写楽が斉藤十郎兵衛だったというのはほぼ確実だと思われますが、なぜこのような短期間だけ活動したかなど謎はまだまだつきません。

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2005.10.14

世界最古の麺?−やはり中国4000年の歴史か

YomiuriONLINEより「世界最古の麺、中国・青海省の遺跡で発見

中国・青海省の新石器時代の遺跡から「世界最古の麺(めん)」が見つかり、中国科学院が13日付の英科学誌ネイチャーで発表した。
出土した麺麺の発祥については詳しくわかっていません。中国では、漢の時代(紀元前202−後220)のいくつかの文献に「餅(びん)」という記述があります。しかし、それ以前にもイタリアが発祥であるという説や、アラビア由来であるという説などがあります。

今回、中国科学院のチームは、中国青海省の喇家遺跡で出土した土器の底から長さ50cm、直径約3mmの麺と思われるものを発見しました。これを放射性同位炭素による年代測定にかけたところ、約4000年前のものと判断されました。

現在、麺は小麦から作られることが大部分ですが、この麺はアワとキビでできており、碗に湯を入れて煮て食べていたと考えられます。

この遺跡は約4000年前に黄河の洪水などで埋まったとされ、“中国のポンペイ”とも呼ばれる住居跡。
この遺跡は地震のあとの突然の洪水によって滅びたと見られています。今回の麺のはいった土器も、人骨のすぐ横から見つかりました。

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2005.10.07

またまた出てきたシェークスピア別人説

YomiuriONLINEより「シェークスピアの名作、実は英外交官の作品?

16世紀の文豪シェークスピアの数々の名作は、実は英国の外交官の作品だった――。5日付の英紙ザ・タイムズなどは、世界の文学史を塗り替えるような研究論文が10月25日に出版されると報じた。
シェークスピア1564年に英ストラットフォード・アポン・エイヴォンに生まれたシェークスピアは1585年ごろロンドンで芝居の世界に入り,はじめ俳優として活躍しましたが、その後,グローブ座の座付作者として戯曲を書き始めました。以後,1611年に引退するまで全部で37編の戯曲と数編の詩を書いています。文学史上最高の天才の一人といっていいでしょう。

ただ、その私生活などに関しては詳しいことが分かっておらず、手紙や日記、自筆原稿なども残っていないことから別人がペンネームで書いていたのではとの説もあるにはあります。

フランシス・ベーコンやクリストファー・マーロー、エドワード・ド・ヴィアーなどいろいろな説があるようですが、また新しい説の登場です。

元ポーツマス大英語講師のブレンダ・ジェームズ氏らによると、一連の作品の作者は、外交官で国会議員だったヘンリー・ネビル(1562−1615)ではないかとのこと。

シェークスピアはネビルの遠い親類で、名前が使われたのは、一部内容が政治的過ぎるため、職務上の配慮があったためだとし、数々の論拠が上げられているそうです。

ネビルは、フランス大使を務めた裕福で教養に満ちた外交官で、シェークスピア作品に登場する英国の宮廷生活や、エリザベス時代の政治、イタリア、フランスの事情などにも深く通じていた。一方、シェークスピアは以前から、一度も欧州大陸に渡ったことがないなど、不自然な点が指摘されていた。
源義経=チンギス・ハーン説よりは面白いかと(笑)

<参考>「シェークスピアの肖像画、実は死後200年の作品−本物か嘘かそれが問題だ

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2005.09.16

ロビンソン・クルーソーの家?が発見

YomiuriONLINEより「「ロビンソン・クルーソー」の家?日本人探検家が発見

日本人探検家・高橋大輔さん(38)が率いる国際学術調査チームは15日、小説「ロビンソン・クルーソー」のモデルとなったイギリス人船員の住居跡と見られる遺跡をチリ沖の孤島で発見したと発表した。
ロビンソン・クルーソー島ダニエル・デフォーが1719年に発表した『ロビンソン・クルーソー漂流記』はスコットランド人の船乗りであるアレクサンダー・セルカークをモデルとして書かれた小説です。アレクサンダー・セルカークは英国王の許可を得て海賊行為をしていた船の航海長でしたが、今から300年前の1704年にロビンソン・クルーソー島(当時はフアン・フェルナンデス島)に置き去りにされました。その後4年4ヶ月を自給自足で暮らし、1709年に海賊船団に助けられました。

高橋さんらは1992年からその謎を追い続け、2001年にセルカークの住居跡らしき遺跡を発見。今回、スコットランドやチリの考古学者ら5人からなる調査チームを組織し発掘調査を行ったとのこと。

当初、住居跡としていた遺跡はセルカークよりも後の時代のものと判明しましたが、その建物下からたき火跡や柱の穴を発見。たき火跡にあった炭の年代は放射性炭素の測定でセルカークの滞在時期に近い物と判明しました。さらにたき火跡付近から航海道具である「ディバイダー」の一部とみられる銅片が出土。当時、航海道具を持参して同島に滞在したのはセルカークだけであることから、この住居跡をセルカークのものと結論づけました。

調査は米国の科学教育団体「ナショナルジオグラフィック協会」の支援で行われ、調査リポートが今月末に世界各地で発売される雑誌「ナショナルジオグラフィック」に掲載される。
こちらに探検家の高橋さんのブログがあります。

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2005.09.15

鄭和の船は1万トン級だった?

Yahoo!NEWSより「鄭和、超巨大船で大航海=史上初の万トン級−中国

中国・明代の武将、鄭和が1405年に艦隊を率いて東南アジアからアフリカに至る遠洋航海に出発して今年で600年。当時としては破格の大航海を支えたのは、史上かつてない木造の巨大船だったとする研究結果を、中国船舶史の権威、席竜飛・武漢理工大学教授がまとめた。14日の新華社電が報じた。
鄭和は明朝時代、永楽帝に仕えた宦官です。彼は1405年−33年にかけて大船団を率い、南海に7回の遠征を行っています。鄭和の船団は、東南アジア、インドからアラビア半島、アフリカにまで達しました。

まだヨーロッパで大航海時代が始まる前のことであり、当時の中国の造船技術には目をみはるものがあります。この航海では多いときで数百隻の大船団が組まれたとのこと。コロンブスがアメリカ大陸を発見したときは250トン級の船がたった3隻ですし、ヴァスコ・ダ・ガマでも12トン級の船3隻での航海であったことを考えると途方もない大きな船団です。

この船団で最も多きい船は「宝船(ほうせん)」と呼ばれる500トン級の船であったといわれていますが、この船が排水量約1万トン級ではなかったとの説が新たに出されました。

席教授によると、「宝船」と呼ばれた艦隊の旗艦は長さ125メートル、幅50メートルの中国史上最大の木造船。排水量約1万トンで、世界初の万トン級の船舶だったという。鄭和の大航海から87年後、コロンブスの米大陸への航海で使われた帆船「サンタ・マリア号」の数10倍の規模になるとしている。
初の世界一周をなしとげたのはマゼランでなく鄭和だとの説がイギリスの歴史学者より出されたこともあります。1万トン級はともかくとして相当大きな船であったことは間違いないでしょう。

ただ最大の謎は、その造船技術がその後の中国に残っていないことですね。

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2005.07.05

ニュートンの錬金術に関する覚え書き、王立協会で発見

Yahoo!NEWSより「ニュートンの錬金術覚書 英王立協会で発見」(共同通信)

ロイター通信によると、近代科学の祖と言われる英国のアイザック・ニュートンの錬金術に関する自筆の覚書が、英王立協会でこのほど見つかった。
ニュートンの錬金術に関する覚え書き17世紀合理主義の代表者のようにとらえられがちなアイザック・ニュートンですが、彼が錬金術や神学に凝っていたというのもまた有名な話です。

主著「プリンキピア」で万有引力の法則と運動方程式について述べ、その古典力学を用い天体の運動を解明、ライプニッツと競うかのように微積分法(流率法)を発明、反射望遠鏡を作ったり、光のスペクトル分析を行うなどの業績を残したニュートンですが、彼が残した原稿の大半は錬金術と神学に関するもので、科学に関するものより遥かに多いといわれています。

二十数年間もロイヤル・ソサエティの会長にあり生前から神格化されていた彼が錬金術(鉄や銅などを金に変えようとする技術)にはまっていたことは長く隠されていました。

しかし1936年、彼の末裔が金に困りこれらの膨大な錬金術に関する文書を競売にかけたことで一躍知られるようになりました。その後、これらの資料の大半を集めたのが経済学者のJ・M・ケインズです。

この覚書はもともと、ニュートンが亡くなった1727年に発見されたが、1936年に競売で落札されて以降、行方が分からなくなっていた。今回、研究者が同協会で文献を整理中に発見した。
ニュートンの遺髪からは錬金術に多く用いられていた水銀が高濃度で検出されています。それでも84歳まで生きた彼は超人でしょうか(笑)。後年には造幣局長官を努めたのも何か錬金術と関係があったのかも。

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2005.06.22

ダ・ヴィンチの未完の名画が壁の後に隠されている?

Asahi.comより「何かがある?謎の空洞と文字 ルネサンスの絵

イタリア・フィレンツェの宮殿会議室に描かれたルネサンス時代の画家バサーリのフレスコ画の裏側に空洞があることが分かり、研究者が調査の許可を求めている。
バサーリのフレスコ画フィレンツェ・ベッキオ宮殿の壁に描かれたバサーリの手による宮殿のフレスコ画に「求めよ、さらば与えられん」という文字が書き込まれていました。このメッセージは以前から知られていましたが、このフレスコ画をレーダやX線を用いて走査したところ、フレスコ画の裏側に空洞があることが判明しました。

フレスコ画とは西洋の壁画に用いる技法で、壁に漆喰を塗って乾ききらないうちに水彩絵の具で描いたものです。石灰の層の中に絵の具が染みこんで乾くため堅牢です。

フィレンツェの美術専門家達は、この空洞にレオナルド・ダ・ヴィンチの未完成の名画といわれる「Battle of Anghiari」が隠されているのではないかと考えているようです。

この名画は未完成で、ホールが修復された16世紀中頃に破壊されたと考えられていました。ただ、他のアーティストによる模写の存在は知られており、モナリザや最後の晩餐に匹敵する傑作ではないかと考えられています。

このフレスコ画の後側の調査が認められれば、フレスコ画の表面に小さな穴を開けて後側を調べることになりそうです。もし、ダ・ヴィンチのフレスコ画が発見されれば大発見。

描かれた壁には、かつてレオナルド・ダビンチの未完の絵があり、研究者はダビンチの未完の絵を知る手がかりが隠されていると考えている。
またまた小説のタネになりそうな話ですが(笑)

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2005.06.12

ストーンヘンジより古い神殿文化がヨーロッパで発見?−歴史は書き換えられるのか

Yahoo!NEWSより「7000年前に神殿文化? 欧州で150以上発掘」(共同通信)

11日付の英紙インディペンデントは、ドイツからチェコ、スロバキア、オーストリアなど欧州の広い範囲で、紀元前4800年から4600年にかけて築かれたとみられる神殿跡などが発掘されたと報じた。
発掘したのはドイツ・ザクセン州文化遺産部局。150以上の神殿跡はドイツ、オーストリア、スロバキアなどの地域で発掘されました。主に土と木材を材料として建築され、半マイル以上伸びた城壁や柵で囲まれていました。

建築した人々は共同で大きな長屋のようなものに住んでいたと思われ、羊やヤギ、ブタなどを家畜として飼っていた集落もあったということです。

この文明はおよそ200年後に滅びたと思われます。なぜ滅びたかは分かっていません。たった200年間で滅びた文明とはいったいどのようなものだったのでしょうか。

現生人類がはじめてヨーロッパに出現したのは旧石器時代後半だといわれています。2万5000年前から1万年前に描かれた壁画がスペインやフランスの200以上の洞窟で見つかっています。フランスのラスコー壁画やスペインのアルタミラ壁画などが有名です。

しかし、このような建築物を建造できた文明は東地中海を中心に紀元前3000年頃から起こったエーゲ海文明が最初ではないかといわれていました。巨石建造物はヨーロッパ各地でも見られますが、例えばイギリスのストーンヘンジも紀元前2800年頃から建設が始まったと見られています。これらの遺跡はそれよりもさらに2000年歴史をさかのぼります。

木で造られた遺跡だったので発見されにくかったのかもしれません。木造構造物の発掘が得意な日本の考古学者ならばもう少し上手に発掘できたかも(笑)

事実なら、巨石文化を示す英国のストーンヘンジよりも2500年以上も前になり、同紙は「欧州最古の文明の発見であり、欧州の先史時代研究を書き換える意義を持つ」としている。
ヨーロッパの先史時代の歴史は書きかわるのでしょうか。

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2005.05.29

殷虚から商王朝の車馬が発見

SankeiWebより「商王朝の車馬坑発見 中国河南省

新華社電によると、中国河南省安陽市の商(殷)王朝(紀元前1600年ごろ−同11世紀)晩期の都市遺跡、殷墟の発掘現場から27日までに、7つの車馬坑(車馬が埋葬されている溝)が見つかった。
商王朝の車馬坑中国の歴史は「三皇・五帝時代」からはじまり、「夏」王朝を経て、「商王朝」へと続きます。といっても「三皇・五帝時代」は完全に伝説上のものです。「夏」王朝も実在が確実視されているわけではありません。

存在が確実に確認されている最古の王朝は「商王朝」です。一般には「殷」の名で知られていますが、「殷」はあくまで年の名前です。

「商王朝」で有名なのはなんと言っても「酒池肉林」の紂王でしょう。酒池肉林の跡(?)の発掘も昨年行われました。

この時代は車馬(いわゆる馬車)が使われていたそうです。主に戦争時に戦車としての利用がされていたようですが。

今回、中国社会科学院考古研究所と安陽市文物工作隊が今年1月11日から、殷墟宮殿宗廟地区の西約3000メートルの場所で行っていた発掘作業で車馬が殉葬されていたのが発見されました。保存状態は完全で、5台の馬車が南北方向に一列にならんでいました。同時に7人の殉葬者も発見されたようです。

ひとつの車馬の車両の前部と左側面では30本の銅製の矢じりと青銅製の短剣も同時に発見されています。

専門家は、商時代の馬車の用途や仕組みなどを知る上で重要な発見だと強調した。
それにしても過去が奥深い国です。

<参考>「酒池肉林は実在した

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2005.05.12

ツタンカーメンの頭部を復元−なかなかの美男子です

なかなかの美男子です。

YomiuriONLINEより「ツタンカーメン、CTで再現…黄金のマスクそっくり

古代エジプトの少年王ツタンカーメンは、ぽっちゃりしたほおのベビーフェースで、王家の遺伝的特徴で歯のかみ合わせが悪かった――フランスと米国、エジプトの科学者らは10日、ミイラからCT(コンピューター断層撮影法)で再現した少年王の顔の画像を公開、有名な黄金のマスクにそっくりだったことがわかった。
ツタンカーメン研究に参加したのは芸術家と科学者で構成するエジプト、フランス、米国の3チーム。合同研究でなくそれぞれ別々にツタンカーメンの顔の復元に挑みました。

今年の1月に王家の谷で墓から運び出されたツタンカーメンのミイラはCTで調べられ、死亡原因などについての分析がされています。ツタンカーメンが死亡したのは19歳の頃。身長は168cm。左足に骨折が発見されました。死因はこの骨折による感染症ではないかとされています。

今回、各チームはこの時のCTスキャンの画像1700枚をもとに頭部の複製に挑みました。各チームはCT画像をもとに骨格のプラスティックモデルを作成。そこに粘土で肉付けし、特徴を明確にしていきました。

この3ちーむのうちフランスとエジプトの両チームはこのデータがツタンカーメンのものと知っていましたが、米国チームはそれを知らされずに作業したようです。

3か国のチームは別々に、約3300年前に亡くなった少年王を再現。鼻筋が通った高い鼻と、細いあごが特徴的な穏やかな表情の顔が浮かび上がるなど、各国チームの調査結果は良く似通っていた。
今後、エジプトのプロジェクトではすべてのミイラをCT検査していく予定だとのことです。

<参考>「CTスキャンによりツタンカーメンの撲殺説を否定」・「ツタンカーメンの死因を追求−呪われませんように(笑)」(サイト内リンク)

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2005.05.09

江戸時代の武士は庶民より歯磨き熱心だった

YomiuriONLINEより「江戸時代の武士は歯磨き熱心、庶民より少ない虫歯

江戸時代の武士は歯磨き熱心で、虫歯も庶民に比べて少なかった――。そんな研究結果を、長崎大大学院医歯薬学総合研究科の小山田常一助手らがまとめた。
歯磨き福岡県内で出土した123人の武士の歯と109人の庶民の歯を調べたところ、武家階級では虫歯は全体の7.9%でしたが、庶民階級では12.2%でした。また、歯磨きをした跡は武家階級では多く見られましたが、庶民階級ではほとんど見られなかったとのこと。男性よりも女性の方が熱心に歯磨きをしていた形跡が見られるとのことです。

日本に歯磨きが伝わったのは6世紀頃といわれています。仏教と同じ頃に僧侶によってもたらされたようです。江戸時代になると僧侶の習慣だった歯磨きは民衆へも広まっていきました。当時は柳の枝を削って頭部を砕き、房状にした「房楊枝」が歯ブラシとして用いられていました。

歯磨き粉には、房州砂という砂の上澄みを乾燥させ香料を混ぜたものが使われていました。文化年間の「買物便覧東都土産」という文献には「大明香薬砂」という歯磨き粉が載っており、効能として『歯を白くする、口中のあしきにほひをさる』と書かれています。

虫歯の有無には栄養状態も影響するが、歯のエナメル質の状態を調べたところ、それぞれの階級で違いが見られず、歯磨きが武家階級の虫歯を抑えていたと考えられるという。小山田助手は「武家は健康管理にひときわ気を使うため、歯磨きをしていたのかもしれない。ほかの地域も調べて、全体の傾向を突き止めたい」と話している。
わが家でも息子(4歳)と僕よりも娘(5歳)と妻の方が明らかに熱心に歯磨きをしています(笑)

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2005.04.24

シェークスピアの肖像画、実は死後200年の作品−本物か嘘かそれが問題だ

Asahi.comより「シェークスピア肖像画、実は死後200年の作品

英国の国立肖像画美術館は21日、文豪シェークスピア(1564〜1616年)の生存中の作とされる肖像画の描かれた時期が、死後約200年後の19世紀前半だったと確認したことを明らかにした。同美術館は他の二つの肖像画も分析中。
フラワー・シェークスピアシェークスピアの肖像画で最も有名なものは「フラワー・シェークスピア」です。シェークスピアの有名な肖像には他に彫刻もありますが、彫刻の方がこの肖像画の写しだと言われてきました。

しかし、今回英国の国立肖像画美術館の調査でこの肖像画がシェークスピアの死後200年を経過してから書かれたものだと分かりました。

美術館が来年開催されるシェークスピアの企画展のために調査を実施。4ヶ月を費やしてX線、紫外線、マイクロフォトグラフィー、顔料の分析などを用いて行われました。その結果、クロムイエローの顔料が1814年年以降に使われ始めたものであることが分かりました。

この顔料は修復に使われたものでないことから、この肖像画は1818−1840年頃に書かれたものと断定されました。

彫刻が肖像画を模写したのではなく、どうやらその逆であるようです。

英メディアは、世界に流布された「はげ頭にひげ面」の印象が変わりかねない、と指摘している。
この1800年代初頭はシェークスピア熱が盛り上がった時期であるとされており、その頃になんらかの養成で書かれたもののようです。

本当のシェークスピアはもっと優男?

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2005.03.29

五穀豊穣を願う謎の土粒、実はカブトムシのフンだった

YomiuriONLINEより「古墳石室から出土の謎の土粒、実はカブトムシのフン

古墳の横穴式石室を中心に各地の遺跡で出土し、五穀豊穣(ほうじょう)や子孫繁栄を願う儀式に、米の代用品として使われたと推測されてきた謎の土粒が、実はカブトムシかコガネムシの幼虫のフンだったことが28日、奈良県桜井市教委の調査でわかった。“遺物”として、詳細な分析を続けてきた考古学者らを驚かせたり、苦笑させたりしている。
この粒は約20年前から遺跡で出土することが知られていました。「米粒状土製品」とか「擬似米」などといわれる直径数mmの小さな粒です。

これらは儀式の時に五穀豊穣などを願ってまいたものと解釈されていましたが、どうやら見当違いだったようです(笑)

桜井市教委が、カタハラ1号墳を発掘したときに多量に出土したため、1ヶ月がかりで1949粒を数え、3−8mmの大きさに分類できることも判明しました。

ところが他の研究者から「虫のフンに似ている」との指摘があったため、橿原市昆虫館に鑑定を依頼。形や大きさからコガネムシ科の幼虫のフンと一致することが分かったそうです。

桜井市教委文化財課の橋本輝彦主任は「まさか昆虫のフンだったとは。これほど詳細なカブトムシのフンの研究は世界的にも例がないそうで、別の意味で貴重な学術データになってしまった」と複雑な表情を見せている。
フンを一生懸命集めて分類した方々、どうもご苦労様でした(笑)

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2005.03.20

銀閣は本当に「銀」閣か−銀箔の痕跡を調査

京都新聞より「銀箔の痕跡科学的に分析へ 左京 国宝・銀閣の修復時に

京都市左京区の銀閣寺(慈照寺)の国宝・銀閣の外壁に実際に銀箔が張られていたかを科学的に調査する計画があることが17日、分かった。同寺は2006年度にも銀閣の修理と調査をしたい意向で、実現に向けて今後、文化庁などと協議を行うという。
銀閣慈照寺銀閣は鹿苑寺金閣とともに臨済宗相国寺派の別格山です。金箔を張りつめた鹿苑寺の舎利殿を金閣と四だのに対し、足利義政の隠棲所の楼閣「観音殿」を銀閣と呼びます。

建立は1489年ですが、当初は金閣に対抗して銀箔を貼る予定が幕府の財政事情のためにできなかったとする説もあります。ただ現在の銀閣を見るかぎり銀箔を貼ったきらきらした建造物を目指したのでなく、落ち着いた仏堂としてのたたずまいを目指したのではないかと思えるのですが。

銀閣と呼ばれるようになったのも寛政年間で、現在まで銀箔を貼った痕跡は確認されていません。しかし寺側によれば壁面の漆塗りの上から銀箔を貼ったとの説もあるとのことで。

中世の日本建築に詳しい川上貢京都大名誉教授は「金閣の派手さに対して、地味な印象から銀閣と呼ばれるようになったというのが通説だが、科学的調査ではっきりさせるのは興味深い」と話している。
さてどうなることでしょうか。

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2005.03.09

世界最古の香水をキプロスで発見−いい香りは永遠に

娘(5歳)はどうも早熟。最近の彼女は香水が気になるようです(笑)

CNNより「世界最古? 4千年前の「香水」をキプロスで発見と

イタリアの考古学者チームは、地中海のキプロス島でこのほど、世界最古と見られる約4000年前の「香水」を発見した、と報告した。現代の香水に近い香りがする、としている。
この香水が見つかったのはキプロスの首都ニコシアの南西約90kmにある丘陵地帯。紀元前2000年頃の香水の入った壷や、銅の精錬の跡、ワイン醸造やオリーブ圧搾の跡などが発見されました。

この遺跡は香水製造の場所であったと考えられています。

発掘調査に当たっていたイタリア学術会議(CNR)文化遺跡技術研究所のマリア・ロザリア・ベルジョルノ博士らが小さな容器に入った香水の香りをかいだところ、ピノ・シルベストルの香りを思い出したとのことです。

香水の成分を分析すると、この地域で栽培されているシナモンや月桂樹、アニス、ベルガモット、ヒメツルニチソウなどが含まれていました。

業界で使用する香水分類の名称のうち、2つにフランス語でキプロス島を意味する「Chypre」が含まれており、語源はこれまで不明だったが、キプロス島で香水が作られていたことがはっきりすれば、この言葉とのつながりも分かるのではないかとしている。
香水の発祥の地はキプロスということでしょうか。

香水に関する最も古い記述では紀元前2500年頃のエジプト第5王朝期に、香炉なるものが存在していたとされています。このころにはすでに香水といえるかは分かりませんが香料のようなものは使われていたようです。ただ当時のエジプトでは,香水は生け贄の悪臭消しやミイラの殺菌などに使用されていたともいわれています。

その後、本格的な香水が登場したのはギリシャのようです。

古来から香水への関心は変わっていないようです。

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CTスキャンによりツタンカーメンの撲殺説を否定

ツタンカーメンのミイラのCT撮影の結果が出ました。

Yahoo!NEWSより「ツタンカーメン王、撲殺の証拠なし=頭がい骨折は死後−エジプト」(時事通信)

黄金のマスクで知られる古代エジプトのツタンカーメン王(新王国第18王朝、紀元前14世紀)のミイラをコンピューター断層撮影装置(CT)などで調べていたエジプト考古学チームは8日、関心の的だった頭蓋(ずがい)骨の骨折跡が生前にできたものではないとする調査結果をまとめた。骨折跡は王が撲殺された可能性を示唆するものとも考えられていたが、証拠は見いだせなかった。
ツタンカーメンCT画像約3300年前に在位したツタンカーメンの最期をめぐっては暗殺説があり、死因を特定するためエジプトの考古庁は南部ルクソールの「王家の谷」で今年1月5日、1922年の発見以来初めてミイラを墓から移動させ、CTスキャンで1700枚の画像を撮影しました。

その結果、彼の死因ではないかといわれていた撲殺は否定されたようです。

1968年にミイラのX線写真が撮られたときに、ミイラの頭の中に砕けた骨の破片が発見されました。それがツタンカーメンの撲殺説につながったわけですが、今回研究チームは撲殺を裏付ける証拠は何一つ発見できなかったといいます。

この骨の破片は生前に砕けたものではなく、死後ミイラにする段階かまたはミイラの発見後にできたものではないかということ。また、その他に足の大腿骨にひびが見つかりました。

同チームは、死後に脳を取り出して防腐物質の注入などを行うミイラ化の際か、発見時に骨が破損したらしいと結論付けている。死因は特定されなかった。
はっきりと死因が特定されたわけではありませんが、大腿骨のひびが生前についたものだとすれば、そこから病原菌に感染し死亡したとも考えられます。

いずれにせよ他殺説が否定された以上、ツタンカーメンのミイラはそっとしておいてあげましょう。

<参考>「ツタンカーメンの死因を追求−呪われませんように(笑)」(サイト内リンク)

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2005.03.02

ペルーでナスカより古い地上絵を発見!

CNNより「ペルーで新たな地上絵を発掘、ナスカより古く

ペルー南部ナスカの地上絵のすぐ近くで、巨大な地上絵が新たに見つかった。海岸沿いの砂漠地帯約150平方キロの範囲に、人間やサルなど約50体が描かれている。ペルー紙エル・コメルシオが2月27日、伝えた。ユネスコの世界遺産に指定されているナスカの地上絵よりも、さらに古い時代のものだという。
ナスカの地上絵新たな地上絵が見つかったのは、首都リマの南約300kmにあるパルパ市の近く。砂漠地帯約150平方キロの範囲に人やサル、鳥、猫などが描かれているようです(写真はナスカの地上絵)。

地上絵には、紀元前600−100年ごろの織物や陶器の図柄としてよく使われ、パラカス文化にとって重要だった「目の神」が大きく描かれていたとのことで、この地上絵はナスカより古いパラカス文化時代のものと判断できるということです。

中央アンデスには今から3,000年ほど前にチャビン文化といわれる一大神殿文明が発生しています。このチャビン文化の影響を受けて起こったのがパラカス文化であり、その後さらにナスカ文化が開花しました。

ナスカの地上絵にもバラカス文化の影響は強く残されています。

ナスカの地上絵が発見されたのは1927年のことですが、それからも地上絵の作成方法は論議を呼びました。しかし現在では、地上絵の原画となった小さな絵も多数発見されており、この原画を拡大して描かれたと見てまちがいないでしょう。

パルパから南へ約20キロ離れたナスカにある地上絵は、紀元前50年から紀元600年ごろに栄えたナスカ文化のものと見られている。ナスカの地上絵は、1994年に世界遺産に指定され、年間8万人の観光客が見学に訪れている。
ナスカも一度は見に行きたいなと思ってますが。

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2005.02.19

稲作の起源、またさかのぼるのか?

稲作が日本で行われるようになったのは今から4000年前の縄文時代後期だといわれてきましたが、

Yahoo!NEWSより「縄文前期、イネ栽培か プラントオパール大量に」

岡山県灘崎町にある彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から、イネのプラントオパール(イネ科植物の葉などの細胞成分)が大量に見つかり18日、灘崎町教育委員会が発表した。
プラント・オパールイネやススキの葉で手を切ることがあるのは、イネなどの葉の中にガラス質の成分が含まれているためです。このガラス質の成分はプラント・オパールと呼ばれています。イネ科の植物では植物の種類ごとに異なる形状を示しているためイネの種類を特定することが可能になります。

また、このプラント・オパールは非常に安定した物質で、葉が枯れた後も半永久的に土中に残ります。短時間なら1000度程度の熱に耐えることもできます。

今回、岡山県の灘崎町にある彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から、イネのプラントオパールが大量に見つかりました。

同じ岡山県の朝寝鼻貝塚からも以前、同じようなプラント・オパールが発見されていますが、その時は微量であったため中国大陸から風で運ばれてきた可能性も指摘されていました。

しかし今回は、史跡整備に伴って発掘した土を分析したところ、土1gあたり約2000−3000個に達するプラント・オパールが発見されました。同時に小麦・キビ・ヒエやアフリカ原産のシコクビエ、コウリャンなども少量発見されました。

イネの栽培をうかがわせ、これまで栽培が始まったとされている縄文時代後期(約4000年前)をはるかにさかのぼる可能性がある。縄文時代の農耕開始をめぐる議論に一石を投じそうだ。
ただこのような小さい粒は浅いところで埋まっていても次第に下へ移動する可能性もあり、さらに慎重な分析が必要ではあるでしょう。
しかし日本の稲作の起源はどこまでさかのぼるのでしょうか。そのうち稲作発祥の地は中国揚子江流域ではなく日本だなんていわれたりして(笑)

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2005.01.22

エジプト学吉村教授、ミイラを発見

テレビや講演で資金をかせいではエジプトで発掘を指揮している吉村先生。とうとう未盗掘のミイラを発見です。

Asahi.comより「早大調査隊、エジプトで未盗掘のミイラ発見

カイロ近郊の「ダハシュール北遺跡」を調査している早稲田大学古代エジプト調査隊(吉村作治隊長)は21日、古代エジプト第13王朝(約3800〜3600年前)ごろのものと思われる、未盗掘の彩色木棺とミイラを発掘したと発表した。
ミイラ第13王朝といいますから、ツタンカーメンの新王国よりも古く、中王国と新王国の間の第2中間期にあたります。中王国が第12王朝をもって終焉を迎えた後、セム系の異民族であるヒクソスにより国内が衰亡していった時代です。

ピラミッドの建設もほぼ終わりを迎えていた頃だと思います。

発見されたのは木棺に収められたミイラで、地下約5mの地点で見つかりました。棺は全体が黄色で彩色され、ヒエログリフで「セヌウ」という男性名と、行政官を意味する「アチュ」という称号が書かれていたそうです。

普通、ミイラは盗掘のため破壊されていることがほとんどですが、今回は棺を収めた地点の上に3300−3100年前と思われる別の墓がつくられていたため盗掘を免れたようです。

これほど古い時代のミイラが完全な状態で発見されるのは極めてめずらしいとのこと。

吉村隊長は「これほど古い時代のミイラが完全に密封されて見つかるのは珍しく、学術的に高い価値がある」と話している。
吉村先生、どうか呪われませんように(笑)

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2004.12.08

お酒の歴史、3000年以上もさかのぼる−紀元前9000年やっぱり中国で

お酒は好きです。これを書いているときも必ず横に。休刊日は現在のところろ・・・ありません(笑)

Yahoo!NEWSより「9千年前、中国に酒=つぼの破片に発酵かす−中東と並び世界最古級・国際調査隊」(時事通信)

中国河南省にある約9000年前の新石器時代の遺跡で見つかったつぼの破片から、コメやはちみつ、ブドウなどで造られた酒のような発酵飲料のかすが6日までに検出された。米ペンシルベニア大や中国科学技術大などの国際調査隊が化学分析を行った成果で、米科学アカデミー紀要の電子版に発表される。
ホントに古いものは何でもでてくる国ですね。

一番古い酒と言えばワインになるでしょうか。『ギルガメッシュ叙事詩』の中に赤ワインや白ワインについて書かれています。つまり紀元前4000−5000年の話になるでしょうか。同じ頃のシュメールの遺跡からは小麦を使ったビールの製法が発見されています。実際の発酵酒の痕跡は紀元前5400年頃のイランの遺跡から確認されています。

中国でも酒造りの歴史は古く、一説には商(殷)・周代にはじまり3000年以上の歴史があるとされてきました。1100年頃、朱翼の記した『酒経』には酒を禹王に献上したという話も書かれています。「酒は百薬の長」という言葉は漢代の「食貨志」という本が出典です。

中国でこの時期に発酵飲料が造られていたことは、つぼの形状などから推定されていたが、化学分析で証拠が明らかになったのは初めて。中東で造られていた大麦のビールやブドウのワインと並び、世界最古級の発酵飲料だという。
米を主成分に、ブドウや香草類が風味付けに使われたと推定されています。風味豊かな紹興酒のような感じ(研究チーム)らしいです。

一気に酒の歴史が3000年もさかのぼってしまいました。今夜は味わってお酒を飲むことにしましょう(笑)

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2004.11.15

ツタンカーメンの死因を追求−呪われませんように(笑)

古代エジプトの王で最も有名なのはツタンカーメンでしょう。何にもしていないのにこんなに有名だと他の方がひがみませんか(笑)

yahoo!NEWSより「ツタンカーメン死因解明へ ミイラのDNA調査」(共同通信)

黄金の仮面で知られる約3300年前の古代エジプト第18王朝の少年王、ツタンカーメンの死因を解明するため、エジプト政府は、同国南部ルクソールの墓からミイラを運び出し、エックス線やDNA検査で詳しく調べることを決めた。中東通信が13日報じた。
ツタンカーメンツタンカーメンは古代エジプトの新王朝時代、第18王朝の王。この時代は第18王朝の末期に属し、彼の死の4年後には第18王朝は終焉を迎えています。

彼は徹底した宗教改革を行い国内を混乱させた兄アメンホテップ4世の後をついで1358年に9歳で即位しました。実権は家臣が握っていたと思われ、政治的にはとても影の薄い王だといえるでしょう。

彼が有名になったのは、1925年にイギリスの考古学者カーターが王家の谷から彼の墓を発掘してからです。墓の規模としても影の薄い王だからでしょうかそんなに豪華ではなかったのですが、盗掘を一切されていなかったため見事な副葬品が発掘されました。

その後、ツタンカーメンの呪いで有名(?)になりましたが、これはライバル新聞社のしかけたゴシップであったといわれています。

18歳で死んだとされる彼の謎の最たるものはその死因にあります。暗殺なのか、病死なのか、事故なのかは未だに解明されていません。発掘当時の所見から撲殺ではないかとの説もでています。

調査を行うのはエジプト考古庁と米国の研究チーム。今月中にもミイラをカイロ博物館に移送、頭蓋(ずがい)骨や肋骨(ろっこつ)を立体的に撮影できるエックス線装置などを使い、死因の特定を目指す。年内には調査を終える見通し。
彼の遺品はカイロの博物館にありますが、ミイラは未だ墓の中に眠っています。

今回が初の移送ということになりますね。呪いに気を付けて下さい(笑)

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2004.11.05

2000年前のおしろい−サラサラ感はばっちり!

妻の鏡台には何種類の化粧品がならんでいるんでしょうか。あれ、全部使ってるんだろうか(笑)

毎日新聞より「古代ローマ:ロンドンでおしろい発掘 成分再現したら、使い心地サラサラ

 古代ローマ人が化粧に使ったとみられる白いクリームがロンドンで発掘された。この時代の化粧品が、そのままの形で見つかったのは珍しい。英ブリストル大の研究チームが分析した結果、使い心地の良いおしろいだったことも分かった。4日発行の英科学誌「ネイチャー」に発表した。

古代のおしろい
2003年の7月にテムズ川南岸の紀元2世紀初めの寺院跡から発掘されたクリームは直径6cmの円筒形の容器にはいっていました。紀元前150年頃のものと思われますが、当時このあたりはローマ帝国の支配下にありました。

湿地帯の泥に埋まっていたため酸化や乾燥が進まず、成分の分析までできたようです。

中身は澱粉と動物性の脂肪(おそらく牛かヤギ)が各40%ずつ。残りの成分はスズの酸化物だったとのこと。澱粉は脂肪の油だらけの感触をなくすために加えたと思われます。これは今でも使われている手法です。

おしろいの由来は古代バビロンやエジプトの古文書や古墳に見いだすことができます。日本でも『日本書紀』にはそれらしき記述があり、713年には国産のおしろいを僧観成が作り出しています。

 研究チームは「当時の人々は鉛の毒性を知っており、より安全なおしろいを作っていた可能性がある」と指摘している。同じ配合でクリームを作ったところ、体温で脂肪分が溶けて肌にしみ込み、サラサラとした使い心地だったという。

美へのあくなき追求はやはり数千年の歴史がありました。妻の鏡台の上も数千年の歴史に支えられてたんだ(笑)

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2004.10.30

鑑真は失明していなかった

鑑真が失明してまで来日したという話が間違ってたといわれるとちょっと悲しいような(笑)

奈良新聞より「[鑑真] 来日時、失明していなかった-定説に新見解【奈良博室長】

 30日に開幕する第56回正倉院展で28年ぶりに公開される正倉院塵芥(じんかい)文書第35巻の「鑑真奉請経巻状」が鑑真の自筆であり、当時鑑真は完全に失明していなかったのではないかとの新見解を、奈良国立博物館の西山厚資料室長が正倉院展図録の中で明らかにしている。同書状の細部の書跡を精査した上で導き出した結論で、今後の同文書の研究に論議を投げかけそうだ。

鑑真奉請経巻状
正倉院文書とは正倉院に御物として伝わる奈良時代の古文書で、正集45巻、続集50巻、塵芥集39巻などからなっています。戸籍計帳などの公文書や官公庁の往復書簡などが収められている奈良時代の根本史料です。

その中の鑑真奉請経巻状は鑑真が東大寺の良弁にあてて華厳経など経典の借用を願い出た書状で来日から1ヶ月後に書かれたものです。これまでは目が不自由な鑑真が弟子に書かせたと思われていました。

西山室長は、書状が記された状況を、(1)だれかが代筆した(2)目が見えないまま自ら書いた(3)弱いながら視力が残っていて自分で書いた―との3つの仮説を消去法で考察した。まず(2)の場合、書けないことはないとしつつも、四行目の「大品経一部」の「部」の訂正部分に着目。最初に書いた文字の上をきちんとなぞるような訂正は、目が見えない人には無理だと断言する。次に(1)では、現存する弟子たちの筆跡の中に一致するものがない▽三行目の「華厳経」を「厳経」と略している▽最終行の鑑真の署名が草書で簡単に記されている―との点を指摘。「弟子が代筆したなら略書はしないだろうし、崇敬する鑑真の名を思い入れ少なく軽い調子で書くことは考えにくい」とし、代筆の可能性の低さを強調する。

とてもユニークな推論ですがあんがいもっともかもしれません。来日の失敗で失明したといわれていますが原因は定かでなく、来日できない神経性のストレスなどでは失明につながるとは考えにくいでしょう。

でも、できのよい伝奇小説みたいで面白いですね。歴史というのはやっぱり推理小説と通じる物があるのでしょうか。

<参考>奈良国立博物館

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2004.10.28

モーツァルトの頭蓋骨をDNA鑑定−夢はこわさなくても

ずっと以前ですがクラッシックのコンサートに誘われた僕は通ぶって出かけてみたのですが、はじまって10分もたたないうちに熟睡。しっかりと睡眠をとってしまいました(笑) それ以来、クラッシックのコンサートは鬼門です。

Yahoo!NEWSより「モーツァルトの骨は本物? 生誕地でDNA調査」(共同通信)

18世紀の世界的な音楽家モーツァルト(1756−91)のものとされる頭蓋(ずがい)骨の真贋(しんがん)をめぐり、オーストリアの歴史家や法医学者らの調査団が27日までに生誕地ザルツブルクでモーツァルトの父親らの墓を発掘、DNA調査を始めた。

1791年になくなったモーツァルトは音楽家たちの墓碑が集まっているウィーン中央墓地に銅像は建っていますが埋葬されているわけではありません。死後、共同墓地に葬られた彼の遺体の正確な位置は不明とされてきました。

ところが聖マルクス共同墓地から墓堀人が発掘したといういわくつきの頭蓋骨がザルツブルグのモーツァルテウムに保管されています。頭蓋骨から顔の様相を割り出すスーパーインポーズ法でモーツァルトのものだと認定されたようですが、発掘の経緯からしてどうも眉唾なところは多いようです。

 調査団は24日、ザルツブルクの墓地から父レオポルトと、モーツァルトの妻コンスタンツェの遺骨を発掘。これまで埋葬が確認されていなかった、モーツァルトのめいとみられる若い女性の骨も発見された。

別に鑑定しなくてもモーツァルトの骨だと信じていれば・・・ダメなんでしょうか(笑)

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2004.10.14

杉田玄白一門が華岡青洲に麻酔術を習っていた

麻酔といえばろくな思い出はありません。一番ひどかったのは頭の傷を処置しているときに麻酔が切れて「痛い!」って叫んでるのに「我慢、我慢」とにやりと笑った○○外科の先生です。あの顔は忘れるもんか(笑)

Asahi.comより「麻酔術「門外不出」説覆る 華岡青洲から杉田玄白一門に

 江戸時代の外科医、華岡青洲(はなおか・せいしゅう)が初めての全身麻酔手術に成功したのはちょうど200年前の1804(文化元)年10月13日。青洲の麻酔術は「門外不出」で普及しなかったとされてきたが、解体新書で有名な杉田玄白の一門に伝えられ、江戸でも乳がん手術が行われていたことを示す新資料を、松木明知・弘前大名誉教授(麻酔科)が東京都内の古書店で発見した。

手術の痛みをとるために人間はさまざまな方法を用いてきました。患部を冷やしたり温めたり。エジプトやインカの遺跡では、頭蓋骨に手術